濱﨑組、誕生
創業者・濱﨑信雄は山口県周防大島町の出身であり、15歳で広島県の左官会社に弟子入りしました。その後19歳で太平洋戦争へ出兵し、終戦後シベリア抑留を経て帰国、
再び広島や山口県の現場で左官をしていました。
1954年、大林組が施工していた、帝人松山工場創設工事の左官工事を4番目の職長として任されました。
そこで、見事に現場をまとめ上げ、四国を任される事10年、1964年に株式会社濱﨑組は誕生します。

職人の社会的地位向上
創業者はシベリア抑留中、左官の技能を身につけていた事で、暖炉やオーブンの役割を果たす「ペチカ」をつき、「濱﨑のつくるペチカはよく火が巡る」と評判になり、各家庭のペチカをついて回る生活を送っていました。技能を身に付けていたことで、抑留の身にも関わらず、仕事が終われば食事や酒を振る舞われ、とても大切にしてもらったと、当時の事を楽しそうに語っていました。抑留時に、海外では職人の置かれている社会的地位は高く、当時の日本とは全く違うという事に気づき、もし日本に生きて帰ることが出来れば、職人を育て社会的地位を向上させたい!と強く決意したようです。
創業精神を受け継ぐ
創業から60年以上が経過し、私たちはその想いを受け継ぎ、一年も絶やさず新卒者を採用して育成してきました。2008年のリーマンショックまでは、技能指導を目的として、中国人技能実習生を受け入れていましたが、その後は、日本人若年者育成により注力しようと、現在(2025年9月現在)は従業員163名、内職人135名(女性職人8名)、現場作業員の平均年齢37歳の日本人のみで構成されています。人材育成の歴史は、弊社の大きな特徴であり、事業の根幹です。
濱﨑組の進化
創業より35年間は、左官工事一本で歩んできた濱﨑組ですが、バブル期以降、湿式から乾式工法への転換で、仕事が急激に減少しました。従業員である、職人の活躍の場を、自ら作る意味で2001年に建築部の前身であるリニューアル工事部を創部し、2010年より建築部として本格的に建築一式工事を手掛けるようになりました。現在の事業内容は総合建設業、ハウスメーカー、左官工事、外断熱工事、建築大工工事、内装仕上げ工事、不動産コンサル業と多岐に渡ります。創業が専門工事業であった為に、私たちの事業の目線は、専門工事である下流から、設計や元請工事である上流に挑戦する、という特異なものであり、常につくり手の想いを大切にし、人材育成を主眼に置いた事業を行っています。
人材育成で未来を切り拓く
日本は人口減少、少子高齢化、地方では人口流出、建設業では担い手不足や職人不足と、人について明るい話題はありません。しかし、事業を継続していく上で、人材育成はいつの時代も真ん中にあるべき課題です。入職は困難を極め、定着には労力と時間がかかります。
しかし、それでも諦めず努力し、やり続けなければいけません。私たちは創業者が夢見た、職人の社会的地位向上の達成に向け、今後もより一層、人材育成に注力します。
